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高野聖その272
其《それ》でもなか/\捗取《はかど》らず、七日《なぬか》も経《た》つたので、後《あと》に残《のこ》つて附添《つきそ》つて居《ゐ》た兄者人《あにじやひと》が丁度《ちやうど》苅入《かりいれ》で、此節《このせつ》は手《て》が八|本《ほん》も欲《ほ》しいほど忙《いそが》しい、お天気《てんき》模様《もやう》も雨《あめ》のやう、長雨《ながあめ》にでもなりますと、山畠《やまはたけ》にかけがへのない稲《いね》が腐《くさ》つては、餓死《うゑじに》でござりまする、総領《さうりやう》の私《わし》は一|番《ばん》の働手《はたらきて》、かうしては居《を》られませぬから、と辞《ことわり》をいつて、やれ泣《な》くでねえぞ、としんめり子供《こども》にいひ聞《き》かせて病人《びやうにん》を置《お》いて行《い》つた。
後《あと》には子供《こども》一人《ひとり》、其時《そのとき》が戸長様《こちやうさま》の帳面前《ちやうめんまへ》年紀《とし》六ツ、親《おや》六十で児《こ》が二十《はたち》なら徴兵《ちようへい》はお目《め》こぼしと何《なに》を間違《まちが》へたか届《とゞけ》が五|年《ねん》遅《おそ》うして本当《ほんたう》は十一、それでも奥山《おくやま》で育《そだ》つたから村《むら》の言葉《ことば》も碌《ろく》には知《し》らぬが、怜悧《りこう》な生《うまれ》で聞分《きゝわけ》があるから、三ツづつあひかはらず鶏卵《たまご》を吸《す》はせられる汁《つゆ》も、今《いま》に療治《れうぢ》の時《とき》不残《のこらず》血《ち》になつて出《で》ることゝ推量《すゐりやう》して、べそを掻《か》いても、兄者《あにじや》が泣《な》くなといはしつたと、耐《こら》へて居《ゐ》た心《こゝろ》の内《うち》。
作品:高野聖
作者:泉鏡太郎
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底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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