TOP
高野聖その255
「唯《たゞ》一|筋《すぢ》でも岩《いは》を越《こ》して男瀧《をたき》に縋《すが》りつかうとする形《かたち》、それでも中《なか》を隔《へだ》てられて末《すゑ》までは雫《しづく》も通《かよ》はぬので、揉《も》まれ、揺《ゆ》られて具《つぶ》さに辛苦《しんく》を嘗《な》めるといふ風情《ふぜい》、此《こ》の方《はう》は姿《すがた》も窶《やつ》れ容《かたち》も細《ほそ》つて、流《なが》るゝ音《おと》さへ別様《べつやう》に、泣《な》くか、怨《うら》むかとも思《おも》はれるが、あはれにも優《やさ》しい女瀧《めだき》ぢや。
男瀧《をだき》の方《はう》はうらはらで、石《いし》を砕《くだ》き、地《ち》を貫《つらぬ》く勢《いきほひ》、堂々《だう/\》たる有様《ありさま》ぢや、之《これ》が二つ件《くだん》の巌《いは》に当《あた》つて左右《さいう》に分《わか》れて二|筋《すぢ》となつて落《お》ちるのが身《み》に浸《し》みて、女瀧《めだき》の心《こゝろ》を砕《くだ》く姿《すがた》は、男《をとこ》の膝《ひざ》に取《とり》ついて美女《びぢよ》が泣《な》いて身《み》を震《ふる》はすやうで、岸《きし》に居《ゐ》てさへ体《からだ》がわなゝく、肉《にく》が跳《をど》る。況《ま》して此《こ》の水上《みなかみ》は、昨日《きのふ》孤家《ひとつや》の婦人《をんな》と水《みづ》を浴《あ》びた処《ところ》と思《おも》ふと、気《き》の精《せい》か其《そ》の女瀧《めだき》の中《なか》に絵《ゑ》のやうな彼《か》の婦人《をんな》の姿《すがた》が歴々《あり/\》、と浮《う》いて出《で》ると巻込《まきこ》まれて、沈《しづ》んだと思《おも》ふと又《また》浮《う》いて、千筋《ちすぢ》に乱《みだ》るゝ水《みづ》とゝもに其《そ》の膚《はだへ》が粉《こ》に砕《くだ》けて、花片《はなびら》が散込《ちりこ》むやうな。あなやと思《おも》ふと更《さら》に、もとの顔《かほ》も、胸《むね》も、乳《ちゝ》も、手足《てあし》も全《まツた》き姿《すがた》となつて、浮《う》いつ沈《しづ》みつ、ぱツと刻《きざ》まれ、あツと見《み》る間《ま》に又《また》あらはれる。私《わし》は耐《たま》らず真逆《まツさかさま》に瀧《たき》の中《なか》へ飛込《とびこ》んで、女瀧《めたき》を確《しか》と抱《だ》いたとまで思《おも》つた。気《き》がつくと男瀧《をたき》の方《はう》はどう/\と地響《ぢひゞき》打《う》たせて、山彦《やまびこ》を呼《よ》んで轟《とゞろ》いて流《なが》れて居《ゐ》る、あゝ其《そ》の力《ちから》を以《もつ》て何故《なぜ》救《すく》はぬ、儘《まゝ》よ!
作品:高野聖
作者:泉鏡太郎
次へ
底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)参謀本部《さんぼうほんぶ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)柳《やな》ヶ|瀬《せ》では
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+散」、36-13]《しぶき》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ばら/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
-------------------------------------------------------