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高野聖その252
殊《こと》に今朝《けさ》も東雲《しのゝめ》に袂《たもと》を振切《ふりき》つて別《わか》れやうとすると、お名残《なごり》惜《を》しや、かやうな処《ところ》に恁《か》うやつて老朽《おひく》ちる身《み》の、再《ふたゝ》びお目《め》にはかゝられまい、いさゝ小川《をがは》の水《みづ》となりとも、何処《どこ》ぞで白桃《しろもゝ》の花《はな》が流《なが》れるのを御覧《ごらん》になつたら、私《わたし》の体《からだ》が谷川《たにがは》に沈《しづ》んで、ちぎれ/\になつたことゝ思《おも》へ、といつて、悄《しほ》れながら、なほ親切《しんせつ》に、道《みち》は唯《たゞ》此《こ》の谷川《たにがは》の流《ながれ》に沿《そ》ふて行《ゆ》きさへすれば、何《ど》れほど遠《とほ》くても里《さと》に出《で》らるゝ、目《め》の下《した》近《ちか》く水《みづ》が躍《おど》つて、瀧《たき》になつて落《お》つるのを見《み》たら、人家《じんか》が近《ちかづ》いたと心《こゝろ》を安《やすん》ずるやうに、と気《き》をつけて孤家《ひとつや》の見《み》えなくなつた辺《あたり》で指《ゆびさし》をしてくれた。
其《その》手《て》と手《て》を取交《とりか》はすには及《およ》ばずとも、傍《そば》につき添《そ》つて、朝夕《あさゆふ》の話対手《はなしあひて》、蕈《きのこ》の汁《しる》で御膳《ごぜん》を食《た》べたり、私《わし》が榾《ほだ》を焚《た》いて、婦人《をんな》が鍋《なべ》をかけて、私《わし》が木《こ》の実《み》を拾《ひろ》つて、婦人《をんな》が皮《かは》を剥《む》いて、それから障子《しやうじ》の内《うち》と外《そと》で、話《はなし》をしたり、笑《わら》つたり、それから谷川《たにがは》で二人《ふたり》して、其時《そのとき》の婦人《をんな》が裸体《はだか》になつて、私《わし》が背中《せなか》へ呼吸《いき》が通《かよ》つて、微妙《びめう》な薫《かほり》の花《はな》びらに暖《あたゝか》に包《つゝ》まれたら、其《その》まゝ命《いのち》が失《う》せても可《い》い!
作品:高野聖
作者:泉鏡太郎
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底本:「新編 泉 鏡花集 第八巻」岩波書店
2004(平成16)年1月7日第1刷発行
底本の親本:「高野聖」左久良書房
1908(明治41)年2月20日
初出:「新小説 第五年第三巻」春陽堂
1900(明治33)年2月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2007年2月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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(例)参謀本部《さんぼうほんぶ》
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